医学博士/形成外科専門医 1986年香川医科大学卒業後、東京大学形成外科に入局。都立救命センターなどで初期研修後、台湾・長庚(チャングン)記念医院、スウェーデン・ヨーテボリ大学への留学を経て、2007年に自治医科大学形成外科教授。2015年よりリラ・クラニオフェイシャル・クリニック院長 造形医学研究所所長 自治医科大学客員教授 日本頭蓋顎顔面外科学会評議員 日本美容外科学会評議員
スガワラヤスシ です。 クラニオフェイシャル・サージャン 顔のかたちの専門医です。
バイト・バンド・バイク(3B)で呆けていた学生時代。それでもなんとか大学を卒業し、国家試験も必死の詰め込み直前暗記で乗り切る。東大形成外科を研修先に選んだのも、外科なら学生時代の不勉強をチャラにできるというヨコシマな気持ちだったし、そんでもって東京で一旗揚げてやる?とかいう、今のアタシなら殴っていた不届きモノ。
29歳のとき 先輩医師(師匠)に見学に連れて行ってもらった台湾の病院で クラニオフェイシャル・サージャリーと衝撃的な出会いをする。それからは居ても立っておられず、ボス(師匠)にお願いして半年後に医局を辞めさせてもらい(無職)、むりやり陳先生(師匠)のところに押しかけ弟子入り、濃密な3カ月を過ごす。
その後は、クラニオフェイシャル・サージャリーへの想いを胸に、形成外科のさまざま技術を習得すべく研鑽を重ね、いつのまにか真面目な外科医と変貌する。90年代には最新鋭だった三次元CT画像構築や実態モデルの研究やら ラットの頭部移植による顔面骨成長の研究やらで日夜くたくた。。。 なんやかんや10年もすると、真面目な外科医でいるのもいささか疲れて飽きてくる。
そんなとき,ご縁があってスウェーデンに1年留学。日本では経験できない数の子どもの頭の手術に明け暮れる。北欧人の暮らしや考え方にもかなり影響を受けたこともあって、自由(生意気@japan)なキャラにスイッチが入る。
留学から戻った年から自治医科大学でチーフとして仕事を再開。たくさんのチャレンジと失敗を繰り返したが、MCDO法という頭蓋骨縫合早期癒合症の治療法の開発と、虎の穴とおそれられた医局組織の構築、それから美容外科を始めたのが自分的には功績。 50歳から副業的にクリニックを開け、55歳で教授職を退き現在に至る。
2003年 突如 本の執筆の衝動にかられ、どこからも依頼されていない原稿を書き出す。自ら出版社に持ち込み,書籍化にこぎつける。こんな超オタクな専門書を一体誰が買うのかという下馬評にもかかわらず(当時学会員は700名しかいなかった)、たちまち1000部以上の売上で重版出来。現在までシリーズ本全体で1万部を超える。
調子にのってシリーズ化した。薄い本なので背表紙を揃えて並べて 本屋で目立ちたかった・・・半分以上は優秀な部下たちの仕事です
さらにお調子にのって 福田慶三先生(ヴェリテクリニック)と美容外科の本も出版するが これがボス(師匠)の逆鱗に触れ、1年口をきいてもらえず・・・でも今はそんなアタシを一番弟子とおっしゃってくださる・・・
その後、教授になって、教育者として衿を正すつもりでまとめ(てもらっ)たアンチョコ本。この本 ほんとに便利だわ・・・
2012年のISAPS学会(ジュネーブ)で、とつぜん Springer社の美人編集者に本の執筆を依頼される! な・な・なんとこのアタシが洋書を・・・ かなりビビりつつも ” Thanks! My pleasure!” なんてつい・・・
しかしこれがなが〜〜い地獄の始まりになるとは予想もしなかった・・・(思い出すだけで、く・くるしくなる・・詳細はトラウマが癒えたら書くかも)
そして・・先のみえない暗黒のトンネルをやっと抜けだし、苦節8年 ようやく脱稿! でも・・正直まだ辛くて本の中身はみたくない・・
2018年に外科の裏技集みたいなものを書きませんかと依頼を受ける。裏技っていう響きが嫌いで、う〜〜んと渋ってた。ちょうどそのころ指導してたワカモノたちのオペがあんまりだったので、このあたりを書いてみるのもいいかな、と思った。すこし書き進めてみると、ややキツめキャラのオッサンと自己評価高いクセに落ち込みも激しいワカモノのやり取りが面白そうかな となる。キャラ絵はもちろん去川画伯にお願いして、少年漫画誌風に仕上がった読み物。こっちはけっこうたのしかったですわ