記号としての顔 その3
私は長い間、様々な顔の不具合を抱えた患者さんと向き合ってきたが、
治療者として顔を考えたときに、いつも2つの側面がそこに見える。
ひとつは記号としての顔。
もう一つは、表現としての顔だ。
言い換えれば、社会的コミュニケーションとしての道具と、個の嗜好の造形。
来院される方は、一様になんらかの客観的な問題がある方がほとんどだ。
そこには、記号としての不完全さがある。
それを補うお手伝いをするのが、形成外科である。
だから、記号としての補完からアプローチする。
ところが治療を通じてお付き合いしてゆくと、しだいに顔の造作というよりも、
ちょっとした声の感じとか、目の輝きといったところに、その方のほんとうの顔があるように感じられてくる。
そしてお会いしている時は、そこだけがふわっと浮き上がって私の前に佇む。
記号が消え、表現が動き出す。
だからいざ治療を考えようとするとき、「さて、この方のどこが問題だったのだろうか」となる。
一度、気持ちを離して、記号として捉え直してから戦略を練る。
ただ、それはなかなか簡単ではない。
攻めようとする外科医の襟元をうしろから引っ張るものが、もうどこかにできてしまっている。
形成外科医は、記号を整え、嗜好を導き出すお手伝いをする。
だからあまり患者さんとは、仲良くできない。