形成外科と美容外科の歴史 日本編
日本編
おそらく医師を含めた多くの日本人にとって、形成外科の存在が広く知られることになったのは、1955年にHiroshima maiden と呼ばれた若い女性被爆者の治療が、アメリカ政府の計らい(Peace-Center Foundation)によりマウントサイナイ病院で行われことに始まるだろう。その際、治療にあたった A.J. Barsky 教授は、翌1956年に来日し「広島原爆乙女の治療を中心としたPlastic surgery」という講演を、東大医学会で行っている。
当時は、整形外科、皮膚科、耳鼻咽喉科といった診療科内で、形成外科的診療を行っていた一部の医師が、それぞれが持つネットワークを通じて情報交換を行っていたが、そうした機運が熟した1960年に、最初の独立した形成外科診療科が東京大学に設立されている。
一方、本邦における美容外科診療は、アメリカのそれと同様に、20世紀初頭より開業医により盛んに行われていたが、パラフィン注入などの医療事故が頻発し始めており、一般世論の美容外科に対する印象は決してよいものとは言い難かった。
こうした背景の中、日本の取ったアプローチもアメリカのそれと大きな違いはない。まずは医師が集まり学会を作り、診療科標榜を獲得し、専門医制度を整えるというプロセスである。
学会は、1958年11月に、第一回の日本形成外科学会総会が東京大学の講堂で行われている。その後、会則の制定、機関誌の発行などを経て、1972年には第63分科会として日本医学会に加盟する。3年後の1975年、国会での医療法70条の改正で神経内科とともに、標榜診療科として認められることになる。また1978年には、5年越しの議論の末、認定医(専門医)制度が発足している。
美容外科の取り扱いについては、当初から激しい議論が交わされている。当初は形成外科の中に美容外科診療を組み込む予定であったところ、当時の厚生省から形成外科を一般標榜診療科に認可する代わりに、美容外科診療を行わないという一文を入れることが要件とされた。
当時の一般世論の動向を鑑みれば、この取引は仕方のないことだったかもしれない。それ以外にも、学会内の権力闘争や開業医師の利権問題などもあり、学会自体の足並みが揃っていなかった要因も否めない。
しかしそれでも形成外科学会執行部は、形成外科の仕事がある程度認知されるだろう数年後に、美容外科を形成外科の傘下におく形での特殊標榜診療科の申請をする予定としていた。実際、形成外科標榜が認められた2年後の1977年に美容外科学会(大森系)を立ち上げている。ところがその1年後には、開業医師が主体となって組織された美容外科学会(当時の名称は日本美容整形学会)から一般標榜診療科の申請がなされ、すんなり認定されてしまった。
この背景には、美容外科学会(十仁系) の設立が1966年と古く、またその母体となった研究会は、なんと1949年に発足しており、機関誌の刊行も1962年と活動の歴史は圧倒的に古いことがあげられる。また当時、日本医師会副会長であった武見太郎や東京大学整形外科教授の三木威勇治らとともに講演会を主催するなど、ロビー活動も盛んに行っていることからすれば、当然のことかもしれない。
いずれにしても日本の形成外科学会は、美容外科領域を傘下に置くことに失敗し、また美容外科診療の質を担保する機能を失うこととなる。
さて、こうしてみると、アメリカと日本における形成外科が、いずれもギルドとして発展を目指したことが窺われる。しかし、大きく異なる結末になった現在、その背景に何があったのかは、こうした歴史的経緯を知ることで、おわかりになると思う。